昭和43年1月2日  夜の御理解      テープ№43-001

                         末永静行



例えば、犬やら猫やらと言うものが餌を、犬や猫の好きな物を与えますと非常に喜ぶ、それこそ尾を振って喜ぶ訳ですね、猫はそれこそ、猫は餌声を出して喜ぶ、ね、これはもう、犬やら猫だけじゃない、もうあらゆる生き物と言う生き物はそうですね、自分の思いようになると、それこそ、尾を振って喜び、猫の餌声をだして有り難いと思い、またいう、人間でも同じ事、ね、(         )ありがとうございますと、もう本当に私共は親先生がなかったら金光様の信心を頂いてなかったらと言うてその喜ぶ、ね、ところが今度はそれと反対なことになる、信心しておってどうしてこんな事になってくるだろう、言うならその餌を求めておるけれども、求めておるのが与えられない、ところが反対のものが与えられる、たてが悪い、神様が、ね、言うように、おいしい物ならおいしい物をこうやる、それを見せびらかせてからまたなおす、猫でも同じ事、しまいにはとうとう怒ってしまうでしょうが。
もし人間がそれと同じであったらです、もう言うなら、犬猫と同じ事と言う事です、ところが私はこの犬と同じ人がどのぐらい世の中にはおるか分からんと思うんですね、自分に都合の良い時には、ね、自分の都合の良い人には、言うなら、尾をふってその人の所へ行くとか、喜ぶ、それこそ、猫の餌声を出して有り難いという、すみませんと言う、けれどもそれと反対になってくると、もうあの奴には物も言わん、ね、またはその(       )情けなかったり腹が立ったりする、でしょうが。
ですから、なら人間がもしそれと同じであったらです、もう犬猫と同じ事だと、いわゆる、人間のつらかぶっておるだけだと、そう言う事でですね一生を終わっていく人が世の中にはどれぐらいおるかわかりませんよね。人間は万物の霊長と仰る、人間は万物の霊長としてのそのあらゆる行き通しいけるものの長と、長(おさ)としての値打ちを下さっておるだけれども、心にも説き、心であり、神心を与えてくださっておるのだけれども、それを我情我欲の為におりかぶってしまっておる、自分の我情我欲のためにそれを包み隠して隠して待った事になっておる、そして、本能的に動く、犬猫も変わらぬような生活をして、そして、それを一生、ね、その事だけから一歩も出る事の出来ない人間がどれぐらいおるか分からん、神様は特別に両親、心という物を与えておって下さる、人間が育んだその両親はなし、そこが違う、そこが長なんだ、そこが長の印なんだ、ね、その心を大事にしないから犬猫と同然のような事になってくるのである、まあ、なんとあさましい事だなと、なんと浅ましい事だと分からせてもらうところからです、ね、私は信心に入ってくる、そこから信心をさせて頂くと言う信心がないとですね、それこそ、犬猫が、ね、食べもをやったり、自分の良いようにしてもらいたいと言う事だけの元に信心がもし始められたとするならこれはちょっとおかしい事になる、けれども、まあ、人間はそこから信心になってくるのです、ね、始めの間は誰しもそこんところから入信してくるのですけれども、よくよくお話を頂いて分からせて頂くとです、ね、これでは犬猫も同じだと言う事に気がつかせてもらい、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理にあうう信心をせよと仰るその道理を分からせて頂こうと進める、それを教祖は天地の道理と仰る、天地には天地の道理がある、法則がある、その法則をたがい、たがいのように、その道理を踏ませて頂くところに自ずと人間の値打ちと言うものが出てくるおかげになってくるのである、いわゆる、有り難い世の中であり、勿体ない世の中であると言うことになってくる、この世は苦の世でもなからなければ苦の世界でもない、これも有り難い勿体無いで生活をさせて頂けれるのも人間だけ、犬猫やらではそれは出来ない、ですから本当にここんところからですねおかげで段々浸透させて頂くようになって分からせて頂いたら犬のごとはちったはましになる、ちったは違った、もらわなければならんから、頂かなければならんからの信心から、ね、こんところを学ばなければ犬猫も同然ということになる訳である。ですから、信心とはそこが有り難いのである、ね。
今朝からある事を神様にお願いさせてもらいよると、そしたらね、人形を頂くんですよ、その、大平人形と頂くんです、大平とは大平(おおひら)と書いてあるね、いわゆる、我が家の春である、本当に自分で思うことのならん事にならんほどに、ね、寒かっても寒い思いをせんで済む、あれが食べたいと思いや食べられる、なるほど金さえありゃそれが出来るのである、ね、いわゆる、結構けだらけのおかげを頂いておるそう言う生活をしておると大平ムードと、そう言う事だと思うと。
ところがそう言う、まあ、安気安なんな生活がでけておる、人間の働きさえすりゃええ、金さえあれば良いと一生懸命に働いて、お金を貯めたところが、ひとたびその働いておるその健康そのものが害される、いわゆる、不健康になる、病気になる、ね、(            )と言う事になるとその事で働けなくなる、出来なくなると次々と難儀な事になってくる、そすと、私のような不幸せなものがあるか、もう私は世の中の屑だと、もう本当にこの世におさらばして死んだほうがマシと言う気になって、自分で自分の命を絶つようにするかです、ね、。
私は思うんですよ、信心をさせて頂いておってもそうなんです、本当にあれもおかげこれもおかげとこう言うふうに磨きに磨いてくるとね、有り難いなあ有り難いなあと皆がいうようになる、本当にこの信心を頂いておったおかげで、ところが信心をしておっても、右に願っても左、左に願っても右と言うようにね、互い違いになってくると、さっきの犬や猫じゃないけれども、おじさんたてが悪いような時、人間ぱっとほとんどがする、手を引かれる、そすともう生きりたくてよか、ね、ここからそれを悲しい、嘆く、そこから世の難儀と言うのがあるのである。
だから、そう言うときにです、ね、これがたてが悪いと分かったら素晴らしかろうと思うね、天地の親神様からたてがらわれよると、それはかわゆいて応えんからたてが悪よると、そうでしょう、もう本当に先日あった、福岡の渡辺(わたなべ)先生がもう京子(きょうこ)ちゃんが(               )私は可愛いと思うて気になるごたるちいうてから、おばちゃんもいくつになるちいうてから、(       )ところが私は可愛いと思う(             )、可愛いからこそですよね、そうでしょうが自分の子供可愛い子供、今日、久しぶりに稲垣さんたちが親子さんで参ってきた、ほんな可愛いですよ、もう可愛いお子さん、ね、もう、それこそ、おとうちゃんがこうやって抱いてから、もうそれこそ、(           )こうやってから可愛いごたるものなんです。(           )子供が喜ぶはずがないですよね、はぁーそれが、それでも親心、可愛いてたまらん、可愛いと思うから餌を見せたり、本当に私は犬なら犬にですね、もうやる気がなかったらそ言う事はしませんよ、たてがいたんです、犬が可愛いんです。天地の親神様とても同じ事、もう、氏子がかわゆうてたまらん、どうぞ、神様と合掌するようになる、段々(     )有り難い、有り難いと言うようになってくる、だから、どのぐらい有り難かじゃろうかと思うてから叩きなさる、そすと、今の有り難いやらどこやら消えてなくなってしまう、そして、こんなに信心をするのにと言うて嘆く、これで良いか知らん、そこで神様の心が分かって来るとそこに有り難涙が湧いてくる、親、親なればこそと言うことになってくる、大坪さんがあげん信心しござるけれども、どうしてあげん難儀せなんじゃろうかと言う時代があった、ね、もう本当にそう思うんです、本当に人の真似の出来ん信心をさせてもらいよった。
内の柿畑じゃった横が、そこにこう道がある、あの道を通るともういつも大坪さん方は拍手でも参らん時は止めたと皆が言うぐらいだった、そのぐらい神様を拝みよった、有り難いと言うて拝み、苦しいというて拝み、ね、あいすまんと言うちゃお詫びのお礼をお詫びをご信心させてもらうからいつもかつも拍手じゃった。それが信心のない人たちもう本当にそれを見よってくださり、それに気がつかれんぐらいにあった、信心しても思いにならなかった、ね、そう言う時にです、私は親心を悟った、これほどしに信心をさせて頂くのにこのような事が起こってくると言う事は、これはいよいよ神様の深い深い思し召し、ご真意があるんだなと私は思うた、ね、これは大坪総一郎頂かにゃでけん、言うなら、大きなおかげを下さるんだなと私は心に思うて、もうその時に有り難かった、ね、叩けば痛いけれども、痛けれども、その腹の底には、はぁーこの後には神様はどう言う生き方、どう言うおかげを下さるとじゃろうかと思うたら、心の底からなんと言うんでしょうかね、にゃーとするようなものを感じる、信心はそこですよね有り難いのは、冷たい、寒い、はぁー冷たい寒いと言うて(     )なかったと言う事、ね、冷たい時はつめたい、寒い時は寒いけど出す、その、一生懸命働かせてもらう、そしたら、ぽくぽくしてなってくる、体がぬくもってくる、寒いのはあたりまえ、寒いとは思えなけれども実を言うたら寒いのは本当のではない、本当の本当と言うのはもっともっとある、これは寒いでしたと、それは、まあ、決まっておる、けれども、ね、もうその寒い時に一生懸命働いたら、それこそ、着物一枚でも二枚でもぬがにゃおられんぐらいな汗が出てくるようになってくる、そこんところを私は歩んできよったように思うのです。ね。
昨日、年賀状をたくさん頂いた中に、大分教会の八坂と言う先生から年賀状を頂いた、その年賀状にこういうようなことが書いてある、『謹賀新年と、おかげを持ちまして、数えて五十歳、いよいよ生きる事の難しさに取り組んで共に立ち行く道を産み出していきたいと念願いたしております。このようなお引き立てお願い申し上げます」と書いてある、ね、年五十歳になって初めて生きる事の難しさにぶつかっておられる、ね、しかもその生きる事の難しさが、自分の生きる事の楽のために、言うならすべてがあるではなくてです、ともに立ち行く事を願いながらおかげを受けていこうとしておられるそこが素晴らしい所です、ね、そして、私は思うんです、生きる事のなんと楽しい事か、生きるという事のなんとありがたいことかとこのように磨かせてもらうようなおかげにこうなって見えている。ね。
ですから、まずこの生きる事の難しさと言う事、様々な人間関係と、だから、もうそれ以上付き合いたくなかったらそれでいいと、そう言う助かり方ではなくてです、ね、こちらも助かると言う事と同時にこの人も立ち行かなければならない事を願いとしておられる、生きる事の難しさから自分でいかに生きよう、これはもうこんな卑怯な生き方はない、自分さえ良かれ、と言うて自分さえ良かれかと言うて世の中では知ってはおる、(          )それはこのことについてまわんである。ね。
それが己の場合がある、子供の場合がある、兄弟の場合がある姑のいうていってる場合すらがある、ね、それがもう親に対しての仕事はしようのごつなかというようなことになって、果たしてそれで楽なるか、幸せになるか、決してそうじゃない、そこにはそこにやはり難儀がまっておる。ね。だから、こんところを、八坂先生のここんところをですね、いよいよ、共に立ち行くところのおかげを願わせてもらうと言うところに信心があるんです、ね。
人間に生きるという事の難しさと言う事をですね、ほんとにまず一つ分からなければいけない、いよいよ生きる事の難しさに取り組んで行かなければいけない、そして、共に立ち行く道を産み出していかなければいけない、それが金光様のご信心なんです、ね、共に立ち行く道を産み出していくと言う事、これが素晴らしいじゃないか、姑と親の中に共に助かっていけれる、本当にあんたのおかげであんたのおかげでと言うような、そう言うようなものを生み出していかなければいけん、信心がね、そう言う働きをできれる働きをできれる道の教えるのが信心なんです。してみると、犬やら猫のようにね、餌を欲しいと、餌を欲しい、糧が悪うて与えられないと腹を立てる、ただ後をやれと、ものをもらいたいばっかりにおまいりをすると言う事はこれは本当じゃない、言うならば犬猫と同じ事だと、信心が、人間が万物の霊長としての値打ちと言うものは(         )心を頂いておること、その心を大事にせんと言う事を教祖は教えておられる、心を大事にして行くうちにですね、段々私は分からせてもらう生きる事の難しさと言う事、そして見るとそこに共に立ち行くような働きがある、家の中から社会に広がっていかなければいけない。
そこで、私は思うんですよね、そう言う例えば道を、そう言う大変な道をです、お互いが覚えていくためにです、どう言う在り方にならせて頂いたらよかろうか、信心をさせてもらいよるおかげを頂く、本当に有り難い有り難いと、もう私共ほど幸せなものがあるじゃろうかというたら、もう姑の事がなくなってしまう、、これぐらい信心をするのに、だって周囲が実意にならなんだもん。
今日、石浦の(   )さんと言う方お参りをして、ね、自分の息子さんをよなきさかに養子に入っちゃる、嫁さんが子宮癌で大変苦しんでおる、もう難しいと言う事、それでお願いにきたのが初めてだった、医者から死刑の宣告を受ける、ね、あんたも病院におっても仕方がないからお家に帰ってくれ、そして、あちらのお母さんもお願いにこられる、その息子さんもお願いに来られる、こちらのお母さんもお願いがあってる、ところがですね、非常に楽になった、ご飯も頂けれるようになり、もう苦しみもなくなってきた、お医者さんがもうどうせ亡くなる、亡くなる時の子宮癌は大変な苦しみをして死ぬから私共も看護しておけと言う事だった、なるほど亡くなられましたけれども、それこそ、金光さま、金光様と言うて亡くなった、金光様に参った事もない、ね、合楽の先生にお願いしてある、もう金光様、金光様と言うて、もうそれこそ、亡くなるならお参りを行くようにそのなくなるもうお参りがようでけた、ところがです、その頃こんどはまた、その(   )さんの息子が養子にいっとるその方が病気になったんです、ね、それっきりお参りなかったんですけれども話は聞いておった、そしたら今朝から参って見えてですね、それから病院に入院された、柴田病院、(            )、そう言うおかげを頂いてから、大丈夫と言うて退院して帰って来られたのが二十六日であった、もう本当にね、もう全く子供達の喜ぶような喜びは、もうそれこそ、 (        )電話がかかってきてからおかげで退院のおかげを頂いたと言うてお礼に、喜んで参られた、ところがですね、二十七日に急に具合が悪くなった。急にもとの状態になられた、もう(           )、そして、亡くなられた、もうそれこそ、医者から大丈夫というて退院してその翌日亡くなられた。そこの養子にいってあるお父さんとお母さんがね、もうそれこそ、やっと治ったのは喜んだのは立ったの一日だけですと言うたそうです、(                             )、そして、難しいところを通って退院のおかげを頂いてからもう一家中のものがぐらりするごたる急に夕べおったらもう亡くなっておられる、本当にそのお父さんとお母さんがね、本当に喜びなさった一日じゃったと、親を泣かせよったと言うてから、もうだから、私も泣いて(       )、両親が自分の本当の息子達ですもん、けれども、その、その、いわゆる、揃ってからですね、こんな不吉なことがあるじゃろうか、本当に人間っちゃ一寸先が闇の世にございますねちいうてから今日ここで参って話されるんですよ、また、この今後も立ち行きますように、表のぶどうが悪いではなかろうか、前をとってそこに家を建てたのが悪うではなかろうかとそう言う事に心をつかわれるわけなんですね、決してそんな事じゃない、ぶどうを植えたからでもない、前のところに家を建てたからでもない、ね、これから立ち行く者ならおかげを受けるかもしれませんよと言うて、ですから、本当に三人が言うようにですね、その世界と言うものは確かに障子一重がままならぬと教祖が仰る、ままならんのでしょうか、ね、そこでです、本当に頼りになるものは何かと言うたら、金でもなければ物でもない、人でもなければ自分の息子でもないという事ですよ、頼りになるものは何かと、もう自分の腕だけ、自分の腕すらも頼りにならんのです、気ぶったらこの筆が役にたたんだもんね、それはどうかしたらもう体が動かれんとだもん、柴田病院の先生が仰ったそうです、そんなことはなかと仰ったそうです、そればってん、この病気してみて下さいと言うたら、これはいかんちいうて、もういっぺんみせちから、もういっぺん病院へ連れてこんねと仰るから(                 )、本当に反省(       )そういう中にあるのが人間なんです、ね、本当に私共がですね、本当の信心、(     )、それこそ、犬やら猫(                )

(途中切れ・・・)